彼女の最後の日
久々に君のラインを開いた。どくんと心臓を打つ。君は今どうしているか。それはもう子どもの頃に見た夢のように淡く、どこかで息をしているようには思えない。一階と隣接する庭園を見下ろせる石造りの美術館のロビーで携帯を片手に立っていても、誰も私に話しかけなかった。一年に一度の学校行事、美術館見学。行事はいつも、静かに過ぎていく。
「今日一日だけ、家に泊まらせて欲しいの。」と彼女は言った。一時間ほどして、赤いスーツケースを引きずった彼女は現れた。
私は彼女を目の前にするといつも不安な気持ちになった。発する言葉ひとつ間違えば、彼女はバラバラに砕けて消えてしまうような気がしていたし、それがひどく愛おしかった。いつも、私にはこれが彼女と会える最後の機会なんだと思った。
そんな甘ったるい感覚に縛られているから、私は彼女となかなか会えていないけれど、話を聞くと彼女は私の父親とはよく会っているようだった。
丁度そのスーツケースのように真っ赤な部屋には、その部屋で唯一白いシーツが覗くベッド、そしてそこで落ち合う男女。私は父に対して何の抵抗感も抱かなかった。彼女を前には性別も歳の差も、さして問題ではないからだ。彼女が目の前にあれば魂が試され、五感全てが研ぎ澄まされ、何もかも輝いたような甘美な時が過ぎる。それを父も分かるということが少し嬉しくさえあった。
とはいえ、母には伝えられないことなので、彼女は朝には新幹線に乗り、遠くへ行く。どこへ行くのか、その先に誰か待っているのかは、聞いてはいけなかった。
今日、彼女がこれまで何か膨大なものに追われて来て、スーツケースを片手にここに居る。汗ばんだ首筋は細く、目はどこを見ているのか分からない。
夢の中では彼女はほとんど言葉を話さない。じっと私を見つめている。私は試されている、と思う。たまらない。
いつまでも消えそうでいて欲しい。