monakanoyume

覚えていた夢などを書き出してみます。

自傷行為としてのセックス

それは自傷行為だった。臭い、おぞましいものを、さもありがたがるかのように、擦り合わせる行為。何のために。断ることが、怖いのだ。

ある一人の人間に対して重度に依存状態にある時、私は不特定多数の異性と体の関係を持った。それはすごく気持ちが悪くて耐え難いものなのに、求められると断る理由が見つからないのだった。気分じゃないから、と相手を突き放す権利が私には無いのだと、本気で思っていた。だって依存相手はいても、恋人が居ないのだから。今となっては、相手も私と似たように自分を傷つけていたのではないかと思う。

同級生からの久々の連絡に応じる。飲食店で会うのかと思うと、家でと言われる。嫌な予感がする。気持ちが悪い。思えばクラスメイトだった時から、こいつと会話らしい会話をしたことはなく、相手を知りたいと思うこともなければ話すことがないのでちっとも楽しくない。相手の気に入らないところばかりが目につく。酒を飲むように言われる。友人関係は断たれた。

 

依存相手への病的な執着から抜け出した時、私の世界は開けてきた。新型コロナウイルスの蔓延が、2人きりの居場所だった部室から、私を追い出してくれた。あとはSNSをブロックされれば、隔離完了だ。人は、片方がどれだけその人しかいないと思い込んでいても、もう片方の判断により、意外と、会わずに生きていけるものだ。半年。死んだみたいに思った。私が私を(少なくとも私を占めていたものを)語る術がなくなった。依存相手からの隔離が、私を抉った。でも半年で、人は、慣れていくものだった。そして、私という、私が一生かけて付き合うことを確約されている、何の価値もないような、空っぽの人間に、気がつくのだ。

 

夏も終わりを告げる寒い雨の日の夜、新型コロナウイルスによる締め出しを未だくらっていないもう一つの部室に行くと、ある男だけが座って居た。嬉しいと思った。彼を知りたいと思い、同時に嫌われたくないと思った。まともな感覚。それが始まりだ。

男は私に性行為を強要してくることはなかった。私は何度も彼に触れたいと思ったが、気持ち悪いと思われたくなかったので、やめておいた。彼を目の前にすると、軽蔑されたくないという恐れのようなものが、いつもあった。その時はまだ、私が彼に対して抱いていたのは、そういう恐れさえ含んだ敬意に貪欲な期待と興味が混じったものに過ぎなかったのかも知れないけれど、それを、好き、という言葉にしていいのだと教わった時、私はどれだけ嬉しく、救われたことか。

自傷行為としてのセックスからの、脱却。