monakanoyume

覚えていた夢などを書き出してみます。

神を失うため

人の肌はあたたかい。細胞じゅうの穴がゆるみ、私は輪郭を失う。一人でするのと全然違う。

3年間好きだった蘭が、この男と交際を始めたのをきっかけに、私は蘭を失った。蘭は私にとって全てだった。高校卒業後を共にする未来こそ見えなくとも、彼女を死ぬまでこの目で見届けたいと思うほど大好きだった。私はよく、彼女の葬式で親友代表として涙をこぼしながら弔辞を読み上げる私の姿を思い描いては酔い、どんなふうにその詞に2人しか分からない崇高な恋慕の情を忍ばせるかを考えたり、骨壷に骨を入れる際、どうにかして一片をポケットにもらって、それをどのように身につけて生活するかに思いを馳せたりした。

その蘭が、この男と付き合い始めた。語彙やそれを選択するセンスといったものを全く持ち合わせていない、自分の感情を言葉として反芻したことの一度もなさそうな、何にも考えてなさそうなこの男と。蘭は、この男が何にも考えていないが故に、交際することを承諾したのだと私には分かった。彼女もまた考えることをやめたかったのだ。

私はこの男と高校3年間クラスが一緒だった。何を話すわけでもないが、私達は休み時間ごとに一緒に居たので、クラスメイトや教師のなかには、私とこの男が付き合っているのだと思う者もいた。この男に異性としての魅力を感じたことなど一度もない。そしてこれからも一切ないだろう。兄弟のよう、と言ってしまえば陳腐だが、私達はこれまで兄弟がセックスをしないみたいにセックスをしなかったし、思春期の異性同士の兄弟があまり互いの恋愛に関心を持たないように恋の話をしなかった。今思えば、私が家族間との性行為という不快極まりない夢を度々見るようになったのは、この頃からだと思う。

この男もまた長い間蘭のことが好きだったのだ、と、私が耳にしたのは、彼が蘭に告白する決心をしたその日になってからだった。周りの友人達は私が蘭に尋常でない恋心を抱いているのを前々から知っており、そんな私をおもしろいと受け入れてくれてきたにも関わらず、いざこうなると、誰もが彼を応援し、嬉しそうに彼を囃し立てるのだった。彼が至極普通の優しい男だからだ。

付き合うことにした、と蘭から直接聞いたわけではない。そのことは、蘭が前に交際していた狂人から、泣きながらかかってきた電話越しに聞いたのだ。その狂人もまた、狂うほど蘭に心酔していた。愛しているから殺したいと日頃私に漏らしていた。狂人は蘭の陰毛が濃いことや、目隠しセックスをした時によかった体位なども、日頃私に教えてくれた。私の蘭への興味は崇高なはずのものであったが、そのおぞましい憎悪とともに狂人の話に耳を傾けられずにはいられなかった。蘭は私と懇意になってから、この狂人とようやく別れた。

狂人からかかってきた電話で、蘭がこの男と交際を始めたことを私は知ったのだ。センター試験直前のこと、学習塾の休憩ルームでのことだった。その休憩ルームは「オアシス」と通称されている。学生同士の私語が許されているからだ。その学習塾には、蘭もこの男も通っていた。会うかもしれないので、私はセンター試験を間近にして、それきり学習塾には足が向かなくなった。その日以降、蘭もぷっつりと学習塾に行かなくなっていたことは、後から聞いたことだ。

私は蘭と、話すことはおろか、目を合わせることすらできなくなってしまった。受験する大学、また進学することになる大学さえ聞かなかった。高校の部活が同じだったので年度末の打ち上げでスイーツ食べ放題の店に行った時も、彼女と目を合わせることは出来なかった。その日こそは他愛のない話でもして、自分が大丈夫だということを示そうと心に決めて家を出ても、その場に蘭がいると、身体が硬直してしまうのだ。

自分がなぜそうなってしまったのか、私には分からなかった。私は蘭のことを大好きだったが、誰か優しい男が蘭のことを好きと言ったら、付き合えばいいと思っていた。それは、私達の間にあるものが、よくある男女の恋愛の域を越えた、もっと素晴らしい繋がりだと信じていたからだ。それなのに、この男の動きによって、私と蘭の全てが崩された。壊された。心外だった。もう蘭を好きでいても意味がないのだ。この何にも考えてない当たり障りのない普通の男との交際は、私が彼女に与えてやれないものだと悟った瞬間、私の感情のやり場がなくなった。

私は何度も蘭の夢を見たが、彼女が喋っていたことは一度もない。でもまばたきをしたり、頬を赤らめたりする。太陽に照らされた髪が金色に輝いていたり、赤い糸に絡め取られて私に殴られていたりする。

今私はこの男の肌に触れているが、この男も蘭を好きなのだ。好きな人が自分の彼女である、って、どういう感覚なんだろう。その指で彼女にも触れたのだ。頬や耳に、触れただろうか。私は蘭を彼女にできなかったから、わからない。彼女と安易にキスをしたり、旅行したり、するのだろうか。交際している者同士が当たり前のように行うであろうそれらのことについて、私が彼らをうらやましいと思っているのか、バカにしているのか、多分両方だ。

この男は私の蘭への思いを知っている。私は今日この男に、蘭と私がこのままでいいはずがないと言われ、言われるがままに蘭に電話をした。大学入学を控えた3月末、引っ越したばかりの私のアパートでのことだ。男は新調したばかりの絨毯に座って、電話をする私のことを気にかけないようなそぶりをしている。電話は事務的なこと、大学は楽しみかとか、どのサークルに入るつもりかとか、そんなことを数分間話して終えた気がする。内容が入ってこなかったので覚えていない。私は電話を切ったあと、床に仰向けになった。そして泣いた。この男はさして驚きもせず、こんな状態の私を放っておかないので今夜は泊まると言った。そして今触れ合っている。

思うばかりで触れたことのない、人の肌が、指の先にある。好きな人のものではないが、丁度いいかもしれない。きっと好きな人の肌に触れれば、私には刺激が強すぎて過呼吸になって死ぬだろう。男は目の前の女を好きでなくても、触られれば勃たせている。バカらしいなと思うことで、幾らか楽になれた。得体の知れない物を入れたくはなかったので男を手持ち無沙汰にさせたけれど、朝までその肌に触れ続けた。今思うとそれを言うのは恥ずかしいが、翌朝家を出たときの澄んだ五感は、今でも忘れられない。道端の他愛もないあまりにも多くのものが、全身の細胞から直接内部に入り込んでくる。一肌向けたのだと思った。

それから蘭と会う約束をできるようになるまでに、3年かかった。